約1400年前の飛鳥時代、須恵器と呼ばれる土器が焼かれたことが、この岐阜県東濃地方のやきもの文化の始まりだといわれている。安土桃山時代、わずか30年程の間に、唐物から和物へと改革された茶の湯の世界の流行とともに、芸術性を高めた美濃焼が登場する。自由な造形、大胆かつ繊細な絵付け、豊かな色彩など、個性あふれる作風の美濃焼は「美濃桃山陶」と呼ばれ、美意識の頂点まで上りつめたといわれており、茶人好みの数々の名陶が創り出された。中でも「黄瀬戸」、「瀬戸黒」、「志野」、「織部」と呼ばれるやきものは時代を越えて愛され、今なお美濃焼の基礎となっている。
しかし、作品の美しさや味を追求したものが作陶の主であった美濃焼は、明治から昭和にかけて衰退の危機に追い込まれる。伝統を守るだけでなく、生きるために新しい道を模索しなければならなくなった陶工たちは、日常雑器を焼くことを選び、その頃から普段使いしやすい磁器の技術に注目が集まった。さらに低コストを実現させるため、分業制度を導入。土岐津町・泉町の煎茶碗や湯呑、妻木町のコーヒー碗皿、駄知町のどんぶり、下石町の徳利、肥田の皿などがそれで、今も各地域に根付いている職工技術の細分化がこの頃に始まった。また、摺絵(すりえ)や銅版、スクリーンプリントなどの加飾技法も開発されたことにより、やきもの生産量日本一の道を歩むきっかけとなった。
やがて鉄道の発達により、美濃焼の卸売業者は精力的に見本を持って全国各地へと飛び回り、大量かつ、迅速に輸送することが可能になる。需要に対応するべく、やきものならどんな種類のものでも焼いてしまう、陶磁器産地のトップにまで成長。そんな「陶器のまち」と呼ばれるその一方で佐賀県の有田焼、石川県の九谷焼、栃木県の益子焼などのように、シンボリックな造形が表立つことはなかった。これは陶器・磁器の区別なく、「織部」や「黄瀬戸」をはじめ「染付」、「青磁」など、多彩な作品が生み出されているが故。高い技術力により、様々な種類のやきものが生産され、それらは日本全国、人々の暮らしに自然と寄り添うまでになった。
そして、この地では今、新たな挑戦が続いている。伝統の技を現代風にアレンジしたうつわや、古の技を深く追求したうつわなど、作陶を続ける陶工たちと窯の数だけ、その可能性は無限。今後、どんな新しい名のやきものが創り出され、また、歴史はどう変化していくのか― 。美濃焼の新たな挑戦が、はじまっている。